第3回落語江戸町歩き顛末記

1980年社学卒「落語観笑クラブ」世話人 青柳勝彦

 去る11月16日(水)二の酉の日、第三弾となる「落語江戸町歩き」が実施された。世間はいまだにコロナの禍中ではあるが、丸3年お預けを喰らわされた我々は、ウィズコロナを免罪符と唱えて、今回は日本橋界隈に残る江戸落語のよすがを尋ねようという趣向である。

 好天の中、11時に水天宮前に現地集合をしたのは、草加八潮稲門会と春日部稲門会の総勢10人衆である。そう、何を隠そうこの企画は、私が焚きつけた一人でもあるが、すべて林文雄さん(1968年理工卒)が企画立案、運行管理を行っているのである。(有難い!)

 このコラムに度々登場する有名人である林さんは、落研出身であった関係から勿論のこと落語に造詣が深くこの町歩きには無くてはならない存在である。そもそも、コロナ以前は年3回行われていた「草加落語会」に春日部稲門の皆様が大挙して繰り出して来られた時に、当時まだ草加稲門のメンバーではなかった林さんが、我々落語観笑クラブとの接点となって下さり、落語会終了後の打ち上げで交流が始まったご縁から、両稲門会合同で落語にまつわる江戸町歩きをやってみてはどうかとして始まったものである。

 因みに、第一弾は2018年11月に浅草から吉原を抜け二の酉当日の御酉様から南千住の浄閑寺まで、第二弾は2019年12月に富岡八幡から深川江戸資料館を経由して本所の回向院まで最後は両国のちゃんこ屋で締めた。町歩きの後の宴会までが抱合せの企画である。

 さて、まず最初は水天宮だ。近代的な石造りの建物の先に鎮座する水天宮は犬の日でもないのに多くの参拝客で賑わっていた。ちょうど七五三の宮参りで着飾った親子連れも多い。お参りの長蛇の列には並ばず、気の弱い我々は後方から手を合わせて早々に退散した。

 人形町界隈は江戸情緒の横溢する素敵な町である。甘酒横丁に入ると我々は早々に焼き鳥重が売り物の「久助」で昼食にありついた。今回は、真面目に歩く覚悟と見えて誰も酒などは注文しない。平日のオフィス街は混むので12時には店を出て町歩きを始めた。

 公演の役者名を染め抜いた幟の竹竿が林立する明治座の前を過ぎ、久松町交差点付近にある小さな笠間稲荷が『紋三郎稲荷』の舞台である。ここはかつて、笠間藩牧野家の屋敷があり家臣が江戸に来るときに狐(紋三郎)となって人を化かす噺である。

 また、今は無き町名の橘町として『湯屋番』の奴湯や『三井の大黒』で左甚五郎が居候した大工の棟梁政五郎の家もこの辺りの設定である。

 明暦の大火により遊郭が浅草裏に新吉原として移る前までは、幕府が開かれてすぐにこの地に遊郭が設置された。一帯は湿地が多かったことから葭原と呼ばれていたようだ。いまでも大門通りという名前が残っているが大門跡もその痕跡もない。次に訪れた末広神社は当時の葭原の南端にあったらしい。近くには、昭和45年に閉館した客席がすべて畳敷きの最後の寄席であった人形町末広亭があったが、その名の由来はこの神社であったと言う。

 その近くに玄冶店跡の石碑がある。徳川家の御典医であった岡本玄冶は3代将軍家光の痘瘡を全快させたことで名を高め幕府から拝領した屋敷に借家を建てて庶民に貸したことから一帯が玄冶店と呼ばれたらしい。ご存じ、歌舞伎その他で有名な与三郎とお富の舞台である。「♪粋な黒塀見越しの松に 仇な姿の洗い髪♪~」と昭和の大ヒット曲、春日八郎の「お富さん」の歌詞が口を衝いて出る方も多いと思う。黒塀ではないが、夜ともなれば黒塗りの車が勢揃いする老舗料亭の「濱田家」はこの辺りにある。

 北上すると三光稲荷がある三光新道(さんこうじんみち)である。『天災』の心学の紅羅坊先生や『百川』の常磐津のかめ文字師匠の家としてこの付近が落語に登場する。
日比谷線が地下を走るこの通りを挟んで椙森(すぎのもり)神社がある。江戸の三富の一つと言われており、当時は富くじに熱狂したことを髣髴とさせる富塚が境内にある。携帯の待ち受けにしたいのかうら若き女性がカメラに収めていた。(私もパチリ。おお欲深い!)なお、ここは『宿屋の富』や『富久』の舞台となっている。(湯島天神とする説もあるが・・)

 さらに北上を続けると、伝馬町の牢獄跡のある十思(じっし)公園に辿り着く。ここには「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂 二十一回猛士」と記された吉田松陰の辞世の歌碑がある。また、鐘を撞くことは出来ないが石町の時の鐘が移設されている。

 南に転じて、10月下旬のべったら市の頃は辺りが麹の香に包まれる宝田恵比寿神社を通ると、すぐその裏手には創業から370年の小津和紙がある。3階にある無料のギャラリーは知る人ぞ知る穴場で、分限者であった伊勢松阪の豪商小津清左衛門が手掛けた和紙、銀行、醤油その他の事業の資料館として整備され、各種古文書や千両箱などが展示されている。我々一行が着くと手ぐすねを引いて待っていたと言わんばかりに早速説明を買って出てくれた方の流暢な説明を聞いた。映画監督の小津安二郎も分家の一族のひとりであるそうな。

 小津和紙でしばし、休憩をして日本橋本町から室町へ歩き出す。永谷商事が運営するお江戸日本橋亭、三井が開発した福徳の森、白木屋跡地のコレドビルなど様変わりした一角はもともと薬種問屋の多かった地で今でも製薬会社の本社が軒を連ねている。

 魚市場跡の碑、道路元標(複製)のある日本橋から三越(越後屋)の脇を通り、金座のあった日本銀行裏を抜け、時間が迫って来たので貨幣博物館には寄らず最後の見学場所である一石橋へ。迷子石の立派な石柱を見てようよう打ち上げ場所の居酒屋、和膳坊へ辿り着き正味3時間約1万歩強の行程を恙なく終了した。

 宴会は春日部稲門会の皆様と全員で座を囲み、感染に注意しながらも和気あいあいと楽しいひとときを過ごさせて貰いました。特に、この数年は草加落語会の開催がないため、その後の両稲門の交流も久しぶりだったので有意義な時間を共有することが出来ました。

 春日部稲門会の落語サークルの中心人物である小林万寿夫さんもまた話術に長けていて久しぶりに開催されたこの場を大いに盛り上げて下さいました。
なかなか他の稲門会との交流が少ない中で、この「落語江戸町歩き」は唯一無二の存在として年に1回の開催が出来ることを願っています。林さん本当にありがとうございました。

 なお、このコラムを読まれた方でご興味のある方は三根幹事長宛にメールアドレスをお知らせ下されば、草加落語会の再開や次回の落語江戸町歩きの案内が届くと思います。

(筆者青柳:前列右端、案内人林:後列左端)

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