ご縁をつないで10年・前編

南三陸支援活動リーダー 鈴木 智美

令和3年(2021年)5月23日、草加八潮稲門会総会第二部・「震災」から「未来」へ 濱守栄子 夢コンサート開催。

東日本大震災から10年目の節目に、南三陸町つながりのご縁を象徴する、メモリアル事業をしっかりと執り行うことができ、会の復興支援事業に大きな1コマを刻むことができました。皆様に感謝申し上げます。

平成23年(2011年)3月11日のこと、覚えていらっしゃいますか。

あの日、私は草加市役所西棟の2階で業務についていました。どこからともなく「来るぞ、来るぞ」というドドドドという表現し難い空気の揺れから始まり、どすんという感覚と、乗り物に乗ったような浮遊感に襲われました。とっさにヘルメットをひっつかみ、頭へ。その瞬間が、鮮明に脳裏に焼き付いています。

その日、テレビの画面に映しだされた、東北沿岸部が次々のまれていくヘリコプターからの映像。日本が、東北が、大変なことになっている!

その夜は、多くの職員が避難所開設などの応援に出動し、私のような待機・交代要員は、机にうつ伏せのまま、眠れない夜を明かしました。

その後の福島第一原発のメルトダウン。計画停電。度重なる余震。昨日まであたりまえのようにあった平穏な世の中が、遠い過去のものとなってしまった。それでも、皆が泣き言を言わずに、自分の仕事を全うしようと懸命でした。

あの頃の私は、テレビや新聞の報道で見た東北の被害を気にしながらも、計画停電でままならない業務の調整に時間を割かれていました。

自衛隊による連日の救助活動から始まり、やがて自衛隊と入れ替わるかのように、多くのボランティアたちが、復興作業に加わっている様子が報道され始めました。平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で顕在化した、市民有志による災害ボランティア活動は、東日本大震災で大きく機能したといわれています。

台湾、ニュージーランドなど、世界中の国から、続々と多くの支援が集まってきていることも知りました。さらにネットで見たある一文。思い切り頭を殴られました。

    すごいぞ!日本人。だから世界は日本が好きなんだ。

    (中略)自分の中の何かが、日本のために何かをしたがっている・・・・。

逆境にあっても、規律を守り、節度ある行動を取り続けている日本人に驚きを示す名もない外国人の、このような投稿でした。

遠い外国の方でさえ、日本に力を貸してくれている。自分は、日々の業務の忙しさを理由に、何もしないのかい?・・・・・東北道を北へ向かって車を走らせている自分がいました。

たどり着いた宮城県南三陸町。覚悟はしていたものの、壊滅的なまちのたたずまいに、言葉を失う。足元を見ると、家の土台跡に、幸せだったであろう家族の痕跡のかけら。

夕闇せまる旧市街地。道路が寸断され、地盤沈下した街跡に海水が侵入している。そこかしこに残る、生活の痕跡。「みんなどこへ行ったのか?」寂しいだけの現実に、その場に居続けることができなかった。

町ボランティアセンターの指示により、高台の志津川高校避難所へ赴く。汗だくになりながら救援物資の仕分けを半日した後、午後は避難所カフェで、避難された方へ飲み物を提供しながら、話し相手をしました。

「機転をきかせて、海沿いに住む両親を連れに戻っていたら、助かったのに・・・。」そう言って泣く女性に、掛ける言葉が見つからない。

一方で、自宅、店、工場、倉庫などすべて流されたのに、「ここからやるぞ!このまちが好きなのっしゃー。」と豪語し、自分のことよりまちの復興に邁進する事業者を知る。

壊滅的な景色以上に、「人」から強烈なメッセージを受けた気がした。帰路では目が滲んで、何度もハンドルを取られそうになりました。

ここは、人がさまざまな想いをかかえながら、自分と向き合うための避難所カフェ。 20 種類以上の飲み物で、せめてものおもてなしをする。

1度限りのボランティアのつもりが、このまちが気になって、その後何度も通うことになった。たくさんの素晴らしい友人ができ、気が付けば、南三陸町は第二のふるさとになっていた。

平成24年5月の総会において、草加稲門会が創立30周年記念事業として、南三陸町支援に取り組んでいくことを決定してくだった。

あれから10年。

ガレキ撤去や泥の汲み出し、めかぶさばきなどの労働支援、事務機器などの物資支援から、今では交流応援へと形を変えたが、まだまだ南三陸町とのご縁は切れそうもありません。

次の投稿で、南三陸支援事業の10年間を振り返ります。

今日までの諸先輩方のご指導、ご協力に、心から感謝申し上げます。

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