早稲田界隈を「中国革命」で歩く(宋教仁と清国留学生たちー早稲田歴史館訪問記)
吉田 保(昭和47年政経卒)
「宋教仁」と言う人物を御存じですか?
清国の留学生、俊才と言われ早稲田で学び、「中国(辛亥)革命」では孫文の陰に隠れてあまり知られてないが、国民党を再結成し初代の党首となる。
しかし惜しくも上海の駅頭で袁世凱の刺客に暗殺され、31歳で歴史の舞台から消えた。
以前から慶応で東洋史を齧った友人よりそんな彼らの痕跡を辿ってみたいと頼まれていて、早稲田界隈を案内することとなった。
宋教仁の下宿はグランド坂を下り、都電の通りを横切った神田川のすぐ傍、川沿いのマンション付近(西早稲田一丁目)と推測できた。我々が学生時代に知っているかぐや姫の歌にあるような、モルタルの汚い安アパートはとっくに消え失せ、替わって小奇麗な鉄筋の低層のマンションになっていた。しかし今でも静かなその露地の家陰から、彼らの笑い声と足音が聞こえてきそうな感じがして胸がときめいた。
また彼らの清国学生寮は大隈講堂からさほど遠くない鶴巻町の小学校辺りと特定し、そしてこの地域が「留学生のチャイナタウン」であっただろうと推測した。
早稲田の図書館で関連情報を探したが他に目あたらしい物はなかった。
後日そんな話を嶋根サンにしたら、ちょうど歴史館の春季企画で「清国留学生部」展が開催されているとの耳よりの情報が入り、早速友人と連れ立って再度探索・見学に赴いた
「清国留学生部」と言う歴史館の説明によると、
「我らの親父さん大隈重信公は「シナ保全論」を掲げ、中国の近代化は地理的にも文化的にも近い日本が扶助すべき使命があると考え、清国より留学生を受け入れることにした。
1899年以降2000人の留学生を受け入れたが、1905年に「留学生取締規制」が出ると留学生が一斉に帰国する。もっともまた徐々に復帰することになるが。
これは清国政府の要請による革命運動の取り締まりを狙ったものだったが、これに抗議・反発する多数の留学生が帰国する事態となった。実際孫文が東京で中国革命同盟会を結成し多くの留学生が参加、革命運動の温床になっていた。」
その留学生の中に宋教仁が清朝打倒の武装蜂起に失敗して亡命、早稲田へ来ていた。
中国の辛亥革命の前後、日本では明治から大正の初期、一万人近くの留学生の大部分は東京に居たが、特に早稲田界隈は中国の留学生であふれていた。この界隈は学生向けの旅館、下宿、飯屋、床屋があり、清国の黄龍旗が翻ってたと記されている。
留学生の生活に触れてみると、
彼らを悩ませたものは健康と食事であり、黄尊三(1908年特別予科卒、民国大学副学長)の記録によれば「日本食は頗る簡単、一汁一菜、味は至って淡泊、飯も小さな箱に盛り切り、具合いが悪い。」と。
脂っこい中国食に比べさっぱりで粗食の日本の下宿の食事は彼らには口に合わず、増え始めた中華料理店に頻繁に出入りし、交流サロンとなりそこが革命運動の温床となっていた。
清国留学生部の寄宿舎は6畳押し入れ付きの部屋と風呂、洗面所、食堂を備え、特に三食中華料理を提供してその当時では立派な施設だったが、学校も可能な限り留学生の生活を快適にしようと努力をしていたようだ。
もっとも公費留学生は黄の日記によると月33円(現在の物価に換算すると66万円ぐらいか)、彼は普通の医者の収入が22円ぐらいと知り「数倍贅沢」と顧みている。結構恵まれた生活のようだが、食費の次に医療費の出費も多く、慣れない風土で心身両面で病気になるものも多く、不測の出費を考えると生活はそんなに余裕のあるものではなかったようだ。
前回は水曜日で大学のほとんどの施設は休館、しかし再訪日は金曜日で大隈庭園、
会津八一記念館、それに彼の贔屓の村上春樹ライブラリー、演劇博物館とフルコースの見学ができ、最後は気を良くした彼と打上げに早稲田界隈の街中華で一杯やった。
宋教仁は世界中で金集めができ声の大きい孫文に比べると、地味でそして不運だった。早稲田や日本時代に学んだ政治、経済の知識を駆使して国家制度の構想・骨格を作りあげ、海外で人気のある孫文に向こうを張って実際に華中地域の武装闘争を指導した。そして
いよいよ1911年10月10日には武昌起義と言われる辛亥革命を成功させた。
もし彼が暗殺されなかったら、憲法を制定し、法の支配による近代化を行い、中国はいち早く議会制の民主主義国家の仲間入りをしていたかもしれない。そしたら毛沢東も蒋介石もましてや習近平のような人間も出なったかもしれないと、今日の中国には一言も二言も文句のある我々は気炎を上げた。
次回は神田まで足を延ばそう、そして周恩来や早稲田に学んだ多くの留学生たちが食事をした神保町の「漢陽楼」で打上げをしようと約して散会した。